あわにゃん日記

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戒め

次の試験は金曜日。
と言うわけで、今日と明日は休みだ。
この2日間本気で勉強したら、金曜日の薬理学は100点だにゃー!


とは思ってみたものの、廃人の俺が試験2日も前から本気で勉強するわけがない。
結局、今日は何もせぬまま1日が過ぎ去ってしまった。
つぁはぁ〜。


うーん、いくら前期試験とは言え、もうちょっとしっかりやらないとにゃー。
明日はマジメに勉強しよう。
よし、明日はパソコン一切使わないし、テレビも一切見ないにゃー!
おっけーおっけー!


そう決意した俺は、パソコンのデスクトップの写真を変えることにした。
今までのデスクトップの写真を、自分の写真に変えた。
その自分の写真とは、今年3月22日の留年が決まった日、留年に落ち込んでいたら、追いコン会場でナカマタに撮られてしまったマヌケな写真だ。
そして、この行動は、ある歴史上の人物のマネである。
その人物とは、徳川家康…。


1572年、その頃はまだ中規模の大名でしかなかった徳川家に、危機が訪れた。
隣国・甲斐(現・山梨県)の武田信玄が、京を目指して進軍を開始したのだ。
そして、武田軍が最初に足を踏み入れたのが、徳川家康の領地である遠江(現・静岡県)だった。


武田信玄、それはあの織田信長が最も恐れた男と言われていて、政治手腕もさることながら、軍事手腕にも優れていた。
特に武田家の騎馬軍団は、当時戦国最強の呼び声高く、無類の強さを誇っていた。
そんな武田軍に対し、家康は不利な野戦での対決を避け、浜松城へ立てこもる。
家康軍を野戦におびき出したい武田軍は、敢えて浜松城を無視して進軍を続け、家康を挑発した。


この挑発に、当時31歳だった家康は逆上。
家臣らの諌めも聞かず、武門の意地を貫くために野外に出陣し、武田軍に戦いを挑む。
そして、両軍はぶつかった。
世に言う、三方ヶ原の戦いである。


戦国最強・武田軍が3万なのに対し、家康の軍勢はわずか1万。
家康軍は完膚無きまでに敗れ、家康は何度も殺されかけながら、命からがら城へと逃げ帰った。
家康は、恐怖のあまり、馬上で脱糞していたと言われている。
家康の人生の中で、最大の敗戦だった。


城へ逃げ帰った家康は、すぐに絵師を呼んだ。
そして絵師に、戦に惨敗して命からがら逃げ帰ってきた、自分の惨めな姿を絵に描かせた。
この絵を家康は生涯大切にし、この戦での自分の短慮と慢心を戒めたという。


少々話が長くなってしまったが、俺の留年した日のマヌケな写真も、それと同じである。
これをパソコンのデスクトップに飾り、明日は自分への戒めとしよう。
おっけーおっけー!


ちなみに、昨日までの俺のデスクトップは、大好きな松嶋菜々子の写真だった。
ん?
キモい?
ざっけんな!
ほっとけよ!


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2006/9/7 6:20:58現在、投票数844(+71)、総計投票数3562(+88)!
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うーん、いい感じにゃー!





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